2011年9月1日木曜日

関東大震災を予測していた男: 今村明恒

今村 明恒(いまむら あきつね、1870年6月14日 - 1948年1月1日)は明治・大正・
昭和を通しての代表的な地震学者であり、とくに地震予知研究の先駆者である。ま
た、震災軽減対策の啓蒙者でもある。

当時の地震計

1899年に、津波は海底の地殻変動を原因とする説を提唱した。現在では広く受け
入れられている説であるが、発表当時はほとんど受け入れられなかった。

今村明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周
期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震
が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産
に對する損害を輕減する簡法」を、雑誌『太陽』の1905(明治38)年9月号に寄
稿した。

この論説を発表したのは、1万人の死者を出したといわれる安政江戸地震
(1855年)のちょうど50年後だった。

その論説は、都市の地震災害、なかでも火災の危険を警告し「安政江戸地震から
50年を経た。次の大地震までには多少時間があるだろうが、江戸に大被害をもた
らした1649(慶安2)年の地震の54年後に1703(元禄16)年の元禄地震が発生し
た例もあることだから、災害予防のことは一日も猶予出来ない」と述べたもの
だった。

今村の論説は、当初は冷静に受け止められた。しかし約4ヶ月後の翌1906
(明治39)年1月16日に『東京二六新聞』が「今村博士の大地震襲来説、東京
市大罹災の予言」とセンセーショナルに取り上げてから大きな騒ぎになった。

そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、
「ホラ吹きの今村」と中傷された。

しかし1923(大正12)年9月1日正午少し前、今村が18年前に警告していたこと
が起きた。関東地震(M7.9)が起きて神奈川県、東京市、千葉県では今の震度
でいえば7という激震に襲われ多数の家が倒壊した。

それだけではなく、各地で出火した火が翌日朝までに東京市の大部分に燃え広
がって火災旋風も起き、消防はなすすべもなく、10万人以上の死者・行方不明
者を出すことになった。これは日本史上最大の地震被害であった。

「震災の大部分は火災である。地震の被害は火災が起きることで激増する」と
いう今村の主張通りのことが起きてしまったのである。

1925年に但馬地震、1927年に北丹後地震が発生し、次の大地震は南海地震と考
えた今村明恒は、これを監視するために1928年に南海地動研究所(現・東京大
学地震研究所和歌山地震観測所)を私費で設立した。明恒の予想通り1944年に
東南海地震、1946年に南海地震が発生した。

1933年に三陸沖地震が発生した際には、その復興の際に津波被害を防ぐための
住民の高所移転を提案した。また、津波被害を防ぐには小学校時代からの教育
が重要と考えて『稲むらの火』の国定教科書への収載を訴えた。

それが実現した後、1940年に『『稲むらの火』の教え方について』を著して、
その教え方についても詳しく指導した。

東南海地震も今村が予想したように起きた。1944年12月7日だった。水準測量
は、たまたまそのわずか1週間前に、静岡県中部にある掛川(かけがわ)から
北西に向かって約6キロメートルの区間で行われていた。

測量そのものは、東南海地震の予知には役立たなかった。しかし、測量の途中
で意外なことが起きていた。水準測量のような精密な測量では、尺取り虫のよ
うに区間を移動しながら測量を進めていくのだが、測量の精度を上げるために、
往きだけではなくて、帰りにももう一度測量を続けて、元の地点に戻ったとき
の誤差を確かめる。元の地点に戻ったときには誤差はゼロになるのが普通だっ
た。

東南海地震が起きたのは12月7日の13時35分だったが、その前の日から当日の
午前にかけて、九つの測量区間の二つの区間で、普通の測量では考えられない
大きな測量誤差が出てしまって、技師たちは首をひねっていた。その誤差は、
ひとつの区間では4.3ミリメートル、隣の区間では4.8ミリメートル。これは
水準測量としては大きすぎる誤差だった。

これが大地震の前兆であったかどうかは現在でも科学者の間で意見が分かれ
ている。しかし現在、東海地震が予知できるという気象庁の根拠にされてい
るのは、じつはこのデータが唯一で、ほかにはないのである。

こうして今村の予想通り1944年に志摩半島南東沖を震源として東南海地震
(M7.9)が起きた。三重、愛知、静岡県を中心に1200人以上の死者行方不明
者を出したほか、航空機産業の中心だったので軍用機の生産に多大な被害を
生んだ。「逆神風が吹いた」と言われている。

しかし第二次世界大戦中だったために地震の被害の報道は固く伏せられてし
まった。新聞の報道も差し止められた。

その後、戦後すぐの1946年12月にも四国南方沖で南海地震(M8.0)が起きた。
死者行方不明者は1,400人以上、家屋全壊12000戸、半壊23000戸という大き
な被害を生んだ。ここでも地震への備えは地震に追いつかなかったのである。

参考資料
今村明恒
地震予知の語り部・今村明恒の悲劇

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